LOGIN智也は、目の前の彼女を見た。 琴葉は、納得できないという顔で彼を見返している。「……智也さん。私のこと、信じてくれないんですか?」 その問いかけに、いつもの甘えるような響きはなかった。それは責めるような、追い詰められた声だった。 以前なら彼女の不安を取り除くために、何かしらの言葉をかけていたかもしれない。 大丈夫だと。お前を信じていると。 けれど、今はその言葉が出てこなかった。 信じるかどうかを決める前に、確認しなければならないことがある。それを怠った結果、会社は今、重大な問題に直面している。 そして自分は確かな根拠がないまま、琴葉の言葉を受け入れようとしていた。「信じる、信じないの話にするな。今は事実を確認している」 「……それって、私を疑っているということですよね?」 「疑うために調べているんじゃない。何があったのかを明らかにするためだ」 自分の口から出た言葉に、智也はまた澪の姿を思い出した。 彼女も同じように言っていた。 誰かを疑うためではなく、事実を明らかにするため。感情で決めつけず、確認できたことだけを積み重ねていく。 以前の澪なら智也が困っていれば、まず話を聞いてくれた。彼の立場を考え、どうすれば問題を解決できるか、一緒になって考えてくれた。 今は違う。 彼女は、必要以上に彼のために動かない。 自分の仕事と、会社が負うべき責任を切り分けていた。その距離が、今になって少しずつ理解できる気がした。「智也さん……私、本当に、こんなことになるとは思っていなかったんです」 琴葉の声が、少し弱くなった。「山下さんから言われた数字を伝えようとしただけで、会社に迷惑をかけるつもりなんてなかった。ただ、智也さんの役に立ちたかったんです」 役に立ちたかった。 その言葉を聞いても、智也の気持ちは動かなかった。 彼女が何を考えていたのかは、これから確認する必要がある。善意だったのか、打算があったのか、それとも別の事情があったのか。 今の段階では、どれも断定できない。 ただ一つ、はっきりしていることがあった。気持ちがどうであれ、結果は消えない。「琴葉、このメッセージの履歴は、絶対に消すな。山下とのやり取りも、今回の情報に関係する連絡も、すべて保存しておけ」 「……分かりました」 「会社の調査担当から連絡があったら、見せ
「今すぐ俺の目の前で確認して、すべて見せてくれ。今回の情報がどこから来たのか、会社として調べる必要がある」 智也の声に、琴葉は目に見えて動揺した。「……今、ここでですか?」 「そうだ。何か問題があるのか?」 「問題というか……仕事関係のやり取りもありますし、全部見せる必要はないんじゃないですか?」 その言葉に、智也の眉間へ深い皺が寄った。「全部見せろと言ったのは、今回の情報に関係するやり取りだ。仕事の連絡を片っ端から見せろと言っているわけじゃない」 「それは、分かっています。でも……」 琴葉はスマートフォンを握りしめたまま、画面を見下ろした。 いつもなら、こんなときでも困ったように微笑み、相手の気持ちをなだめる言葉を探したはずだ。しかしながら、今の彼女にはその余裕がない。 智也は、苛立ちを隠さずに言った。「琴葉。俺は、お前を責めるためだけに聞いているんじゃない。会社に関わる問題だから確認しているんだ」 「……はい」 ようやく返事をした琴葉は、メッセージアプリを開いた。履歴を遡る指先が、何度も止まる。 智也は黙って、その様子を見ていた。 やがて、琴葉が一つの画面を表示した。 そこには、山下とのやり取りが残っていた。『御子柴さんに、この数字を伝えてもいいですよ』 その下には、入札に関係する数字が記されている。 智也は画面を覗き込み、送信日時を確認した。入札を控えていた時期と一致している。「……このメッセージだけか?」 「そうです。数字を伝えてほしいと言われたのは、これです」 「その前後のやり取りは?」 「少し、仕事の話をしています。でも今回の数字については、これだけです」 「見せてくれ」 琴葉は一瞬ためらったものの、言われたとおりに画面をスクロールした。 智也は、表示されたメッセージを一つずつ確認した。そこに、情報の入手先を明確に示す言葉はなかった。 山下がどこから数字を得たのか。なぜ琴葉に伝えたのか。そして、なぜ自分に渡すよう指示したのか。 肝心な部分は、何も分からない。「山下から、この数字を受け取った。それを俺に伝えようとした。間違いないな?」 「……はい」 「お前は、この数字がどこから来たのか、確認したのか?」 琴葉の唇がわずかに引き結ばれた。「一度だけ聞きました。でも、山下さんは気にしなくていい
研究所で澪と琴葉のやり取りを目撃した智也は、琴葉の様子がいつもと違っていたことを気にかけていた。 感情をむき出しにして澪に詰め寄り、声を荒らげる姿。 普段なら上品な笑みを浮かべ、甘えた言葉で相手の懐に入り込む琴葉が、あれほど取り乱すのは珍しかった。 何かを恐れている。 そう感じた智也は急いで琴葉を呼び出し、単刀直入に問いただした。「どうして研究所に来たんだ?」 「え……?」 「澪に何を言った?」 琴葉は一瞬、言葉に詰まった。「ただ、話をしに行っただけです。宮坂先輩のことが気になっていたから、直接聞きたかっただけで……」 言い訳を重ねる琴葉に、智也は納得しなかった。 あの場で見た琴葉は、単に澪と話をするために訪れた人間の様子ではなかった。何かに追い詰められ、冷静さを失っているように智也の目に映った。「それと、山下という名前が聞こえた。誰のことだ?」 その瞬間、琴葉の表情がわずかに強張った。 研究所で思わず口にした名前。それが智也の耳に届いていたとは、考えていなかったのだ。「……どうして、その名前を?」 「聞こえたから聞いている。誰なんだ?」 「だから、以前話したでしょう。仕事で知り合った人です」 「仕事で知り合った相手が、なぜ澪の前で名前に出てくる?」 琴葉は言葉に詰まった。 知らないと否定すれば、なぜ澪との会話でその名前を出したのか説明がつかない。かといって、山下との接点を認めれば、智也に隠していたことまで明らかになるかもしれない。「……それは」 「名前を出した以上、知らないでは済まない。何を隠している?」 智也の問いに、琴葉は唇を噛んだ。 これ以上ごまかすのは難しい。そう判断したのか、琴葉はしばらく口をつぐんだ後、観念したようにスマートフォンを取り出した。「……これを見てください」 画面には、山下とのメッセージが残されていた。そこには、山下から送られた一文があった。『御子柴さんにこの数字を伝えていいですよ』 日時も文面も、画面に残っている。 智也は、そのメッセージを見て表情を険しくした。「……これは、いつの連絡だ?」 琴葉はすぐには答えなかった。 競合他社の入札情報が、どのような経路で自分の会社に伝わったのか。まだ全容は明らかになっていない。 それでも、山下が琴葉に数字を伝えるよう指示していたこ
*** 離婚の話を続けても、進展は望めない。 そう悟った智也は、話題を研究所の情報流出へと移した。 入札で使用した情報の出所が問題になっていること。会社として調査を進めているものの、まだ不明な点が多いこと。そして、琴葉が研究所の人間と接点を持っていた可能性が浮上していること。 智也は、把握している状況を説明した。「君なら、何か分かるんじゃないかと思って……」 その言葉に、澪の表情がわずかに変わった。 智也は、澪が研究所に勤めていることも、研究データの扱いを理解していることも知っている。彼女なら、何か手がかりを見つけられるかもしれない。 妻としての情に頼るのではなく、現場を知る人間として、その知識を借りたい。 少なくとも、智也自身はそう考えていた。「前にも言いましたが、私はあなたの会社の人間ではありません。研究所の情報を、あなたのために提供することもできません」 澪の返答は、明確だった。「そういう意味で言っているんじゃない」 思わず口をついて出た言葉に、智也自身もわずかに戸惑った。「では、どういう意味ですか?」 澪は問い返しただけだった。責めるような口調ではない。それでも、智也はすぐに答えられなかった。 自分が求めているのは、情報そのものなのか。それとも、以前のように自分の事情を理解し、何も言わずとも支えてくれる澪なのか。 研究所に勤める人間としての知識を借りたいのなら、彼女が情報を提供できないと答えた時点で、引き下がるべきだった。 それなのに、納得できない。 澪が協力できないことよりも、協力しようとさえしてくれないことが、どこかで引っかかっていた。 智也は、その感情をうまく言葉にできなかった。 頼れると思っていた相手は、もう「あなたのため」には動かない。 研究所の廊下に落ちた沈黙が、その事実を突きつけていた。 智也は、澪が自分を疑っているのかと訊ねた。「……俺が、わざと情報を盗ませたと思っているのか?」 澪はすぐには答えず、彼をまっすぐに見た。「私は、誰かを疑うために調査しているわけではありません。確認できた事実をもとに判断するだけです」 智也がデータを盗んだと、澪は決めつけていない。 けれど、彼が出所の確かでない情報を利用したことと、その結果について会社として責任を問われることは、別の問題だった。「俺は
琴葉が立ち去ったあとも、智也はすぐには動けなかった。 澪に話をするために研究所を訪れたはずだった。けれど、目の前で琴葉と対峙する澪を見て、声をかける機会を失っていた。 かつての妻とは違う冷静な姿。自分のためには動かないという、明確な距離。 その二つが、胸の奥に重く残っていた。 周囲の視線が散り、受付の騒ぎが収まったところで、智也はようやく澪に近づき、大きな声をかける。「……澪、少し話がある!」 澪が振り返る。その表情に、大きな変化はなかった。 突然声をかけられたことに驚く様子も、彼が何を話そうとしているのか気にする素振りもない。「お話でしたら、こちらで伺います」 それは、淡々とした返答だった。 以前の澪なら、智也の話を聞くために場所を移していたかもしれない。 周囲に気を配って休憩室あたりに案内し、二人で話せる時間を作ってくれたかもしれない。 けれど、今の澪はそうしなかった。 仕事中だからというだけではない。必要以上に私的なやり取りをする理由が、もう彼女にはないのだろう。 研究所の廊下には、職員たちが行き交っている。 智也にとっては、落ち着いて話せる場所とは言い難かった。それでも澪は、ここで十分だと言うように彼を見ていた。 智也は戸惑いを押し隠し、この場で口を開くしかなかった。 言葉を交わす前から見えない壁が、二人の間に静かに横たわっていた。 智也は思いきって、離婚について話し合いたいと切り出した。 弁護士から手続きの進捗は聞いているが、まだ納得できていなかった。 澪が本当に離婚を望んでいるのか。自分とやり直す余地は、もう残されていないのか。 直接話せば、考えを変えてくれるのではないか。そんな期待を捨てきれずにいた。「俺は、まだ離婚するつもりはない」 澪は驚きも怒りも見せず、静かに答えた。「私は、離婚する意思をお伝えしています」 「だから、もう一度話し合いたいと言っているんだ」 智也は思わず声に力を込めた。 これまでの結婚生活を、すべて否定するような終わり方はしたくない。自分にも言い分がある。澪の気持ちを聞かないまま、結論を出したくはない。 そうした言葉を重ねながら、智也は何とか離婚を思いとどまらせようとした。「澪、聞いてくれ。全部が間違っていたわけじゃないだろう。やり直せる部分も、きっとあるはずだ」 「
琴葉は、澪が勤める研究所を突然訪れた。エントランスの受付で名前を告げ、取り次ぎを求める。しかしアポイントメントもなく、来訪目的の説明もはっきりしない。 職員は丁寧に、しかしハッキリと断る。「本日のご予約は確認できません。お用件を伺ったうえで、改めて調整を……」 「は? 嫌よ!」 それでも琴葉は引き下がらなかった。 これまで保っていた上品な余裕が少しずつ剥がれていき、焦りが声の端に滲む。 「宮坂澪さんに会わせてください。どうしても、本人に聞かなければならないことがあるんです!」 声がホールに響く。そのせいで、周囲の視線が一斉に集まった。来訪者や職員が足を止め、何事かと振り返る。 受付は対応に困り、内部へ慌てて連絡を入れる。「宮坂主任にお取り次ぎいたします。少々お待ちください」 琴葉はカウンターに両手をついたまま、呼吸を整えるように肩を上下させた。 冷静を装おうとしても、焦燥が態度に出ている。 研究所の静かな空間に、場違いな熱だけが不自然に広がっていた。 *** そのとき、澪と話をするために研究所を訪れた智也が、受付で騒いでいる琴葉を目撃した。 足が自然と止まる。 なぜ琴葉がここにいるのか。何をしに来たのか。 思い当たる理由はなかった。それなのに、彼女は明らかに取り乱している。 智也が声をかけるより先に、澪が受付に姿を現した。 白衣の裾をわずかに揺らし、静かな足取りで近づいてくる。表情は冷静だった。騒ぎの中心に自分がいることを理解したうえで、まず場を収めようとしている。 琴葉は澪を見つけると、周囲の状況も忘れたように詰め寄った。「宮坂先輩、どこまで知っているんですか?」 声が尖る。それは詰問だった。 琴葉の様子を見ても澪は一歩も退かず、しかし感情で押し返すこともしなかった。「ここは研究所です。用件があるなら、落ち着いて話してください。白石さんは、何を確認しに来たんですか」 相手を宥める言葉なのに、そこには琴葉の勢いに流されない強さがあった。 智也は、少し離れた場所から二人のやり取りを見守っていた。声をかけるタイミングを失い、ただ立ち尽くす。 琴葉の焦りも澪の冷静さも、かつて自分が知っていた二人の姿とは違って見えた。 *** 突然現れた琴葉に、澪は訝しげな表情を浮かべた。「宮坂先輩、わかってます?」